R-9 ICBMの歴史(翻訳)

以下の文章は、R-9 ICBM MODのマニュアル※の一部を翻訳したものです。

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R-9 v1.1

MOD製作者

Andrew Thielmann (igel)
Nikita Vtyurin (Thorton)

R-9 ICBM

このアドオンを、R-9の創造者であり、わが師であり、才能あるエンジニアであり、偉大な人物であった「チーフデザイナー」ことワシリー・パヴロヴィチ・ミーシンに捧げる。

ワシリー・ミーシンは長く、興味深い生涯を送った。浮き沈みが激しく、素晴らしい功績もあれば痛ましい悲劇もあった。同時代の多くの著名な人物がそうであったように、彼の人となりとその業績は論争の的となった。けれども、彼の残した遺産は、重要であり疑いようのないものである。

ミーシンの手がけたプロジェクトのいくつかは今日でも活躍を続けている。あるものは忘れ去られ、この星から飛び立つことはなかった。
彼は自分の業績のなかで、いつもR-9のことを誇りと喜びとともに語り、最愛のわが子と呼んだ。ロケット時代の黎明期に生まれた、この優美で危険なロケットのなかに、彼の魂の一部は生き続けているのだ。

歴史

液体酸素のトラブルを越えて

ロケット開発の歴史のきわめて早い段階において、エンジニアたちは液体酸素-ケロシン方式のICBMに見切りをつけつつあった。保管の問題、長い時間を要する燃料注入、気化による損失などのため、即時発射態勢を維持せよとの軍の要求を満たすことができなかった。当然のことながら、多くのエンジニアはほかの燃料に目を向けるようになった。

だが例外もあった。ワシリー・ミーシンはつねに、液体酸素-ケロシン方式は有毒な燃料、酸化剤より優れていると信じていた。彼は液体酸素をめぐる問題はすべて解決できると確信していた。そして彼はやり遂げてみせた――その過程で、ソ連の極低温産業を再発明することになった。彼の仕事のおかげで、あらゆる種類の、あらゆる量の極低温燃料をすばやく容易に生産し、ほとんど損失なく保管することが可能になった。短時間かつ自動化された燃料注入プロセスのさらなる発展は、やがてR-9を誕生させ、その長い寿命をもたらすことになった。

問題続きのテストフライト

R-9のテストフライトは1961年4月に開始された。ユーリ・ガガーリンが宇宙に行ったのと同じ月のことであった。最初の打ち上げテストは4月9日に行われ、これはガガーリンの打ち上げのわずか数日前だった。この打ち上げは成功せず、ユーリはロケット開発者たちを、自分の打ち上げはきっとうまくいくと言って励まそうとした。

R-9の開発の様子は、ボストークに乗り込む宇宙飛行士たちからもよく見えた。R-9の初期のテストフライトに使用された51番発射場(このアドオンでも完全に再現されている)は、「ガガーリンの発射台」からほんの数百メートル北にあった――裏庭と呼んでもさしつかえないぐらいの場所に。近接して建てられていたおかげで、ボストーク-モルニヤロケットとR-9は多くの設備を共有することができた。

テストフライトは3年にわたって実施されたが、成功したものはごくわずかだった。頻繁に打ち上げが行われたが、失敗も多かった――あらゆる種類の、無惨な失敗に見舞われた。R-9を手なずけるのは容易ではなかった。時間をかけて、十分な信頼性を実現できるようになっていった。その痛みを伴うプロセスにおいて、ロケットの設計者たち、そして地上クルーたちは重要な教訓を学んでいった。このアドオンでは初期の打ち上げテスト――成功したものと失敗に終わったもの――が再現されており、あなたも彼らの苦労を追体験することができる。

さまざまな発射台

51番発射場で最初に用いられた発射台は、Desna-Nと呼ばれた。これはV-2と似た方式の、シンプルなテーブル型の発射台であり、初期の打ち上げテストにおいて採用された。その後、3つの地下サイロ(近接して配置され、Desna-V型射点と呼ばれた)が、より遠くの70番発射場(これもまた、このアドオンにて再現されている)に建設された。このサイロの周囲には、指揮・通信施設がある地下壕、液体酸素、ケロシン、圧縮ガスなどの地下貯蔵庫などが設置されていた。驚くべきことに、これらの打ち上げ施設は運用が終了した後も破壊されなかった。高価な機材はもちろん取り払われたが、巨大な地下迷宮は現在でもそのまま残されている。

その後さらに、R-9のためにまた別の種類の発射台が開発された――Dolinaという、防護設備つきの地上型発射台である(このアドオンには含まれていない)。DolinaはDesna-Vのような地下サイロではなかったが、十分に防護されていた。主な特徴として、打ち上げ前の手順のかなりの部分が自動化されていたということが挙げられる。ICBMとして、この自動化によってきわめて短い時間で発射態勢に入ることができるようになった。興味深いことに、この方式はその後ICBMでない宇宙ロケットにおいてしばしば採用されてきた。事実、いくつかのDolina発射場は、宇宙ロケットの打ち上げのために転用された。

中間フレーム: 驚異の統合システム

もうひとつの先進的な、そして重要な特徴は、発射台とロケットとをつなぐ中間フレームの採用である。中間フレームはそれ自体にケーブル用の支柱が取り付けられており、ロケットとの接続の大部分を収納していた。これによって発射台とロケットとの接続箇所を少なくし、ロケットの立ち上げ、燃料注入、打ち上げ準備の手間を省き、素早く行えるようにした。

中間フレームは組み立て棟においてロケットに接続され、ひとつのユニットとして結合されたまま発射場まで運ばれる。ロケットが打ち上げられると、中間フレームとケーブル用支柱は発射台に据え付けられたまま、その場に残される。現在では、この方式は世界中の宇宙ロケットの打ち上げで広く採用されている――ゼニットから巨大なエネルギアまで、そしてSpaceXのファルコン9などの多くのロケットで目にすることができる。

ICBMとしての運用

バイコヌールにおいてテストが終了したのち、国中のいたるところに数多くのR-9発射施設が建設され、ICBMが配備されていった。R-9は1976年まで実戦配備された。現代の視点からみれば、R-9は当時のICBMとして最良のものではなかった、と評価するのはたやすい。後発の自己充足型ロケットは、揮発しない自然発火性燃料を注入したままで、より強固に守られたサイロに保管され、より新しい誘導システムを採用していた。R-9はこれらのロケットに対し、即応性、正確さ、信頼性のどれにおいても劣るようになっていった。

だが、長きにわたるR-9の配備は、それ以上のものをもたらした。R-9は本当の意味で実戦配備可能な最初のICBMだった(巨大な発射施設を必要とし、発射準備に数時間かかるR-7を数に含めることはできない)。このロケットは、あらゆる人々とあらゆる課題――どうやってICBMを大量生産するか、どうやって立ち上げるか、最短時間で燃料を注入し打ち上げるにはどうすべきか、地下サイロから発射する方法は、数年、数十年にわたって即時発射態勢を維持するには――にとっての学校であり、実験場となった。

宇宙への遺産

奇妙な運命のいたずらによって、R-9は中型の打ち上げロケットとして転用されることはなかった。打ち上げロケットとしても活躍できただろうに残念なことだ。だが、この大昔のICBMは、一般に思われているよりずっと宇宙に近い存在だった。

このロケットの目立つ特徴のひとつが、第1段と第2段をつなぐ部分の隙間の空いたトラス構造である。このトラス構造は、第1段と第2段の「熱分離」に用いられる。第1段のエンジン停止と分離に先立って第2段に点火するが、第2段の噴射炎をこのトラス構造から外に逃がせるようになっている。

この「熱分離」方式のトラス構造は、一般的にはR-7系統の宇宙ロケットの特徴として知られている。モルニヤ、ボストーク、ソユーズ、これらのロケットはすべて、隙間の空いたトラスに上段を乗せる構造になっている。しかし、ICBMでこのようなデザインが採用されるのは珍しいことだ。そして驚くべきことに――これは偶然の一致などではない。

R-9の打ち上げを見てみると、もうひとつ分離方式についての特徴があることに気づかされる。大きな円柱型の中間ステージが第2段から切り離され、3つに分かれて落ちていく。この方式に見覚えがないだろうか?そして、第2段はどこか奇妙に見慣れたデザインではないだろうか?

お察しの通り、R-9の第2段はまさに――モルニヤ(そしてソユーズ)の第3段、信頼と実績のブロック1ロケットの姉妹とでも呼ぶべき存在なのである。このふたつはほとんど同一のロケットであり、ブロック1はより大きなタンクを持ち、長時間の噴射が可能であるにすぎない。

どちらが先に開発されたのかというと、これはどちらでもない。これらの上段ロケットは同じ時代に、並行して開発されていた。よくある誤解だが、R-7系統のロケットを「自然進化」の結果として、3段構成のボストークから4段構成のモルニヤロケットへと「年代順に」並べてしまうということがある。けれども、打ち上げ日時を注意深く見ていくと、軌道ミッションのためのボストークに数ヶ月先んじてモルニヤロケットが打ち上げられていたことがわかる。時として、進化は直線的なものではないのだ。

この時系列の食い違いの原因は単純なことだ。ボストークの非力なブロックEに取って代わることのできる、より強力な上段ロケットは、すでにR-9のために開発されていた。これをR-7の上段に乗せるのはシンプルで安上がりなことだった。ただ、1961年の時点ではそこに人間を乗せられるほどの信頼性はなかった――そこで、ユーリ・ガガーリンのボストークには、必ず動くことがわかっているものを使わなければならなかった。

翻訳:Nikogori